こんにちは。編集長です(https://twitter.com/YAMATO22224)。

今回は、“南アフリカ史上最高のストライカー”として、UEFAチャンピオンズリーグをあの名将ジョゼ・モウリーニョ監督とともに勝ち取ったあの人物の波乱万丈な人生を特集していきます!

ベニー・マッカーシー

やわらかいボールタッチと強靭なフィジカル、それに加えて抜群のスピードとFKも蹴れる万能性。

これだけ優れた能力を兼ね備えている選手はアフリカでは非常に珍しく、逆に言えばだからこそベニー・マッカーシー選手は多くの成功を勝ちとることができたのでしょう。

19歳でオランダのアヤックスへと入団、このシーズンで9ゴールを挙げて2つのタイトル奪取に貢献した後、スペインリーグやポルトガルリーグ、さらにはプレミアリーグで活躍しました。

特に、ポルトガル時代にはジョゼ・モウリーニョとの出会いもあり、スーペル・リーガ優勝、リーグ得点王、UEFAチャンピオンズリーグ優勝などの原動力となりヨーロッパにポルト旋風を起こす中心となる活躍を果たしました。

また、代表レベルでも1998年、2002年ワールドカップに出場。80試合に出場し、31ゴールを獲得。南アフリカ代表最多得点記録を保持しているまさに南アフリカのレジェンドなのです。

しかし、彼はアフリカ出身のプロサッカー選手に見られる家庭が裕福なわけでもなければ、特別な支援やスポンサーがいたわけでもありませんでした。

いわゆるゲットー出身の彼が、ここまでのしあがり、17年間もの厳しいプロサッカー選手としての生活を全うすることができたのは紛れもなく彼の強い精神力とサッカーを何よりも一番に考える彼のマインドの賜物であると言えます。

そんな彼の少年時代を少しだけ見てみましょう。

マッカーシーのベスト10ゴールはこちらから!
https://www.youtube.com/watch?v=f1Sn2NcZA0w

マッカーシーの少年時代

マッカーシーはハノーバーパークという非白人系の居住区で育ちました。

ギャングが幅をきかせ、治安の悪さで有名なこの地区は常に暴力と隣り合わせでした。

マッカーシーが10歳の時、街角で座っていると、突然流れ弾が飛んできて、隣にいた友人の頭を打ちぬいたと言います。

その様子を彼は次のように話します。

それでそいつは一巻の終わり。
多分10メートルくらい先から見事に頭に命中さ。
あんな界隈で育てば、15歳まで生きられるかわからない。
ほとんど毎日、授業が終わっても学校の敷地内に残っていたよ。
外では、ギャングの抗争とか、打ち合いとか、いつも何か騒動があったからね。
銃声が聞こえない日はなかったよ。
特に日曜日はひどかった。
大体日曜日の午後は戦いの時間と決まっていたんだ。
がきだったから、何かあればすぐに家に帰ったものさ。

マッカーシーはスポーツに打ち込んだことで幸運にも勝ち組に入ることができたと、自身の歩みを振り返ります。

ギャングになったり、酒におぼれたり、マンドラックス、とかエクスタシーみたいな麻薬をやったり、そうしたことに流されるのを防いでくれるサッカーが俺にはあったのさ。

そして、10代の終わりにはオランダの名門アヤックスに加入し、26歳の時にはポルトでCL優勝を果たすまでになったのです。

マッカーシーの未来

マッカーシーは引退までの3年間を地元のビッグクラブであるオーランド・パイレーツで過ごしました。

引退の際に彼は、自身の未来について次のように言及しました。

サッカーは僕の人生そのもの。僕の血はサッカーを愛する心で染まっているんだ。だから第二の人生については、まず指導者のライセンスを取ることに専念したい。そして知識を学べる場所で働きたい。あと、試合を見るのも好きだから、いくらかはメディアの仕事もしたいな!

その言葉の通り、UEFAのA級コーチングライセンスを取得した現在は指導者として忙しい毎日を送っています。

編集長編集長

いつの日かマッカーシーが南アフリカをW杯優勝に導く姿が見てみたいものですね!

マッカーシーのプロフィール

名前:ベニー・マッカーシー
愛称:ベニー
国籍:南アフリカ
出身地:ケープタウン
身長:183cm
体重:87kg
ポジション:FW
利き足:右
ヨーロッパ通算成績:367試合146得点



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